古くから湯治場として知られるM県のK温泉へ泊まった時のこと。
日の暮れる前に宿へ着いたものの、夕食までにはまだだいぶ時間もあったので、明るいうちにとカメラを持って散歩に出た。
湯治場の建物や、行商人が長期滞在の湯治客相手に雑貨や生鮮品を商う店として使う小屋を撮っていると、温泉とその周辺の略地図が載った案内板を見つけた。
神社があるようだ。宿に戻って訊くと、湯治客が詣でる神社だという。
教えられた道を行ってみると宿の裏手に出た。少し歩くと杉林が切れて、そこから先は笹に左右を挟まれるような細い道。腰のあたりまである笹の中を掻き分けるように行くと、唐突に目的の神社が現れた。
正面にはすっかり朱が剥がれ朽ち木のようになった小さな鳥居が立っている。笠木までの高さが私の背丈ほどしかない鳥居をくぐって参道に出た。参道といっても社殿まではほんの数歩。周りは笹ばかりで手水もなにも無い。
社はさっき撮った行商の小屋ほどの小さなものだった。社殿の壁や窓の桟には湯治客が奉納した御守りと思しき人差し指ほどの小さな黒っぽいものが絵馬のように紐で結わえ付けられており、風でかすかに揺れていた。
快晴の夕刻は光と陰がきっかり分かれる。オレンジ色の夕陽が強く当たって明るいわりにコントラストが強すぎてものはよく見えない。社殿の正面の階段へ足を掛けて鈴の緒に手をのばしたところで気付いた。社殿に結わえ付けられていたのは御守りではなく、すべて小さな髪の毛の束だった。
その途端、私は身体が硬直してその場から動けなくなった。
人は、突然度を超えて気味の悪いものに至近距離で相対すると、頭や身体が対応できずにその場に立ちすくんでしまうのだろう。私は身体をこわばらせたまま目の前の髪の毛の束を凝視するしかなかった。
やがて、夕陽の強い明暗に慣れてきた目に、社殿のあちこちに置かれたり差し込まれたりしている物が見えてきた。杖、丸めた包帯、割れたギブスの残骸・・・
松葉杖の置かれているのが目に入る。アルミの松葉杖。握りと脇に当てる部分が青いプラスチックで出来ていた。
プラスチック。そんなに古くない松葉杖だ。「ここに最後に人が来たのはそう昔ではないらしい」そう思った途端、スッと身体のこわばりが緩んだ。私は社殿の方を見たまま視線を切らずにそろりと鳥居をくぐると、つとめてゆっくり歩いて元来た道を宿へと帰った。