2022年10月20日木曜日

良寛「書して某氏に与う」を読む

・読み下し

書して某氏に与(あた)う

古に曰く 君子は物を好まずして意(こころ)を物に遇せしむとは誠なる哉(かな) それ人の意あるは 物に触れて感ずれば 則ち憂喜を発す 其れ未だ発(ほっ)せざる 之を中と謂(い)い 発して節に中(あた)る 之を中と謂う 足らざるは則(すなわ)ち及ばず 過ぐれば則ち溢れ 溢(いつ)るれば則ち流る 流れてその身を喪うに至ると 我をして細かに之を道(い)わしめんに 身を没するも尽くす能(あた)わじ 請う其の大体を道わん 陶淵明は之を菊に遇し 謝康楽は之を山水に遇し 支遁は之を馬に遇し 劉伯倫は之を酒に遇す 書に遇する者 琴に遇する者 詩に遇する者 画に遇する者 狂言に遇する者 滑稽に遇する者 或は楽しみて之を忘れ 或は好みて之を執る 古来の感 目前の徴(しるし) 了然として観るべし 何れか是なる 是非は子其焉(これ)を択べ   良寛



・あれこれ参考にしつつ、あくまで個人的に訳したもの

昔から、人徳・学識・礼節を修めた人は物を好むのではなく物の本質(作った人の思いや物の成り立ち)に心を注いでいたと言われていることの、なんと真実であることでしょうか。

もし、人にその心があれば、物に触れると憂いや喜び、豊かな感情が湧くのです。

喜びも憂いも感じない状態を「中」といい、これは心のバランスがとれている状態です。でも、喜びを感じているとしても節度を保てているのであれば、それもやっぱり「中」といえます。

心が足りないと喜びを感じることはできませんが、多過ぎると煩悩があふれ出て心のバランスが崩れ、ひとつことに執着したりあれこれと目移りしたりで気付けば時だけが流れて人生のタイムリミットが迫っているということになります。

私は、物や趣味に執着没頭するということについてここに記しています。しかしながら、そうであろうとなかろうと、人はいずれ死ぬ。このことは止められません。あなたに請われてここに書くこれが、物に執着すること趣味に没頭することの全容です。

陶淵明は菊に、謝康楽は山水に、支遁は馬に、劉伯倫は酒に、それぞれ出会い、それらに没頭して生涯を終えました。彼らの他にも書や音楽、ポエムや絵、お笑いや文学と出会った者たちがいました。彼らは趣味を満喫し、それらに没頭していずれ迎える死を忘れているのです。もしかしたら、趣味に没頭することで死を忘れようということなのかも知れません。

古くから言われてきていること、そして今目の前にしている物事、これらすべてをよく見定めてください。

何が正しく、何が間違っているのか、あなた自身でそれをえらぶのです。

良寛



良寛は僧として物や趣味に執着没頭することを、ここで戒めているのだろうか?これを読んで、良寛の生涯について読み聞いた事を思い返してみると、私には、浮世に生きている間にこの俗世で趣味に没頭するような生き方も、それもまたありだよと言っているようにも思える。どっちであっても、答えとして選んだあなたにとってのそれが正解ですよ、と。



蓄音機の落書き

 スピーカーとアンプを土産に宮﨑監督を訪ねた折のこと。 帰り際に監督が「これ」と言って封筒を差し出した。 「なんですか?」 「それで一杯飲みなよ」 見ると、『お礼』と書かれている。上には朝顔蓄音機の絵が。 「駄目ですよ。土産の礼金なんて聞いたことないですよ。それに一杯どころじゃな...