「俺はいま、半径30メートルで暮らしてるよ」
『風立ちぬ』公開後、宮崎監督はよくそう口にしていた。
それは言う時々によって半径200メートルだったり50メートルだったりしたけれど、本質的に監督の言わんとしていることは同じだったと思う。
「それが今の俺の全世界だよ」
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「スマホにくっ付いてるカメラって、あれずいぶん広角レンズだよね。あれじゃダメだよ。うんと近寄って見ないと。ものを引いて俯瞰で見てばかりだと、なんでも引いた見方・引いた考え方になっちゃう。隔ててしまうんだよそれでは。好きなものや気になるものはうんと近付いて見なきゃ。でないと、見えねぇ」
短編作品『毛虫のボロ』が完成したのはそれから3年後のことだった。
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会話の中で宮崎監督の何気なく云われたことの中には、ステイホームで戸内に籠りがちな昨今の暮らしを有意義なものにするヒントが含まれているようにも思える。
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ある時、宮崎監督を訪ねると、アトリエの横の植え込みに監督がしゃがみ込んでいた。私が挨拶すると、
「おー、ひさしぶり」
監督はそう言ってまた植え込みへ視線を戻した。
「ヒイラギをね。ちょっと・・・うーん」
ヒイラギの葉を一枚摘んでアトリエへ戻ると、監督はそれをテーブルの上へ置いてじっと観たり、手にとってクルクル回したり、テーブルに落としてみたりしていたが、やがて傍にあった紙と鉛筆を手元へ引き寄せて描きはじめた。
「このヒイラギの葉がさ、地面に落ちるんだよ、ハラリと。土の地面にだよ。でも小さな虫からしたらこんなデカイのが落っこちてくる訳だ、ズシーンと。どうやったら軽やかにズッシリと描けるんだろうね?」
「うーん、虫にとっても葉っぱはハラリだと思いますけど」
「と、思うだろ?違うんだよ。物理的な正確さでなく、本当らしく見えるっていう。でないと死ぬんだよ、動きがアニメにならないんだ。分からねえよな。俺もどうしようかと思ってさ・・・うーん、クソ!こんなヒイラギ描いたらカミさんに馬鹿にされるな。植物の絵は女房の方が上手いんだよ・・・うーん、ダメだこりゃ」
「監督、そろそろ帰ります。気が散るでしょう」
「気なんか散らないよ。俺は描いてるところと喋ってるところで脳の使ってるとこが違うんだから。50年描いてりゃ、話してても絵に集中するくらいな事はなんでもないんだよ」
「そうですか?でも」
「いいから。俺はまだ五時半まで時間があるんだから、君はそこへ座ってりゃ良いさ」
「じゃあそうします」
「俺はいま、半径30メートルで暮らしてるよ」
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